フィジーの横顔

 

 

 

 

 

 

 

 

                                

  

 

 

 

平成22年4月

 

在フィジー日本国大使館

 

 

 

 

 

目次

 

 

1.フィジーのシンボル・・・・・・・・・・・・・1
2.南太平洋の十字路フィジー・・・・・・・・・・1
3.フィジー植民地化の経緯・・・・・・・・・・・1
4.伝統的社会指導者大会議・・・・・・・・・・2
5.フィジー現代史概略・・・・・・・・・・・・2
6.政情・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
7.国連平和維持活動への貢献・・・・・・・・・7
8.砂糖と観光の国フィジー・・・・・・・・・・7
9.ハネムーンで人気のフィジー・・・・・・・・7
10.パシフィック・ウェイ・・・・・・・・・・・7
11.多民族国家、フィジー・・・・・・・・・・・8
12.フィジーに残る日本人の子孫・・・・・・・・8
13.「国技」ラグビー・・・・・・・・・・・・・8
14.伝統的飲料 ヤンゴナ・・・・・・・・・・・8
15.幻の名花、タンギモウジア・・・・・・・・・9
16.在留邦人・・・・・・・・・・・・・・・・・9

 

 

 

 


1.フィジーのシンボル

1)国名
「フィジー」は、現地語「VITI(ビチ)」から来ている。1779年、キャプテン・クックがトンガを発見した際、トンガ人より隣に「フィジー」という国があると聞き、これをFeejeeと書き記したのが、「フィジー」の起源となった。VITIの由来の有力な説は次の通り。(イ)昔、初めてフィジーに到来した人々が、村をつくるためにジャングルを切り拓いたのだが、この灌木を切る行動をVITIといい、それが島の名前になった。(ロ)フィジーの主島はビチ・レヴ島とバヌア・レヴ島から成っており、それはあたかも母島と子島のようである為、VITI(母と子の意)と呼んだ。

(2)国旗
ライト・ブルーの地の左上に英国国旗(ユニオン・ジャック)を配し、右中央に獅子、砂糖きび、バナナ、ヤシ、ハト等を描いた盾(国章)を配したもの。

(3)国歌
「神よフィジーを守り給え」

(4)国花
定められていない。ハイビスカスの花が国花に準ずる扱いを受けている。

(5)国木
定められていない。ココナツの木が国木に準ずる扱いを受けている。

 

2.南太平洋の十字路フィジー

 南太平洋の真ん中に位置するフィジーは、人口約83万人、総面積は日本の四国とほぼ同じで、南太平洋ではパプアニューギニアと共に中心的な存在となっている。また、日本、アメリカ、ヨーロッパ等の地域からトンガ、キリバス等の南太平洋の国々を訪問する為には、まずフィジーを経由して行くことからもわかるように、フィジーは当地域の交通の要衝となっている。
このようなことから、フィジーの首都スバにはUNDP、WHO、ILO等の国際機関の代表が駐在、また、太平洋諸島フォーラム(PIF)事務局、南太平洋大学(USP)、南太平洋応用地球科学委員会(SOPAC)等の地域機関も本部を置いている。

 

3.フィジー植民地化の経緯

 英国によるフィジーの植民地化は、フィジー側が自発的に主権を譲渡した点に特徴がある。
(1)欧米人が来訪し始めた頃のフィジーでは、まだ数多くの部族が争っていたが、欧米人が定着し始めた19世紀中頃までには、ビチ・レヴ島東部の伝統的酋長(以下チーフ)であったザコンバウ(Tui Viti「フィジーの王」と自称)を中心とする部族連合体が形成され始めていた。
(2)1850年代、米国の軍艦、外国人等が、フィジー人から受けた損害の賠償としてザコンバウに対し4万5千ドル(当時)を請求、これに窮したザコンバウは他のチーフと協議した結果、英国に賠償の肩代わりをしてもらう代わりにフィジーの主権を譲渡することを決定したが、英国は国内事情などにより、この申し出に消極的であった。
(3)その後、英国領事等の助力で部族連合国家の形成が試みられたが、うまく進展せず、結局、フィジーの治安悪化に対する懸念等から英国は上記(2)の申し出を受けることになった。その結果、1874年、英国とザコンバウをはじめとしたチーフたちとの間で正式に領土編入に関する合意が成立し、フィジーは英国の植民地となった。また、英国の植民地となった他の理由として、当時トンガからの侵略の恐れがあったためとも言われている。

 

4.伝統的酋長(チーフ)大会議(Great Council of Chiefs:GCC

(1)起源
フィジー系社会は、古来チーフ制度をとっており、英国の植民地となった1年後の1875年、英国王室の名代としてゴードン初代総督を正式に受け入れる為に各地の高位のチーフ達が集まったが、これは同総督にとって、フィジー行政に関して諮問する良い機会となったことから、その後も同総督は、このような集会を「Native Council of Chiefs」と名付け定期的に開催させた。これが代々の総督に受け継がれ「Great Council of Chiefs」と名称を変えて現在に至っている。なお、
「Native Council of Chiefs」で当初話し合われていた事項は主に植民地化による新体制の下でいかにチーフの権利を守るかに焦点がおかれていたが、現在では、フィジーの先住民族に関する社会情勢や政府の政策等、より一般的な議題が中心となっている。

(2)現在の活動・構成
GCCに関し、現憲法(2009年4月10日をもって廃止中)は、第116条にてGCCの設立に触れ、更に第90条で大統領任命権、第164条で一部上院議員の任命権について規定しており、強い影響力を有する重要な機関となっている。歴代の大統領は皆高位のチーフが務めてきた。現憲法も、右GCCによる承認を得て公布されたものである。なお、暫定政府はGCCの活動内容を見直す必要があるとの理由で右GCC活動を一時停止させ、右GCC活動等に関する見直し作業を行っている。

 

 

.フィジー現代史概略

(1)フィジーの人口は約83万人で、その内訳は、先住民であるフィジー系が約57%、インドからの移民の子孫であるインド系が約37%で、残りは主に中国系、欧州系、近隣各島嶼国系の国民から成る。フィジー系は紀元前よりフィジーに住んでいたメラネシア系とポリネシア系の混血とされており、その大半が生活基盤を伝統的な「村」に置いている。一方、インド系の大半は19世紀末から20世紀初頭の英国植民地時代当初にサトウキビ栽培のために連れてこられたインド人労働者の子孫である。

(2)1987年の総選挙において、主にインド系が支持する労働党及び国民連合党の連合が僅差で勝ち、フィジー系のババンドラ労働党党首を首班とする連立政権が誕生した。ババンドラ内閣ではインド系閣僚の数がフィジー系閣僚の数を上回ったことから、フィジー系の間で「自分たち先住民族の権利が侵される」との危機感が高まり、同年5月、ランブカ中佐(当時)の率いる一部軍人が無血クーデターを起こした。
同年9月の二度目のクーデターの後、マラ前首相を首班とする暫定政権が成立し、フィジー系優位の社会体制の確立を目指した新憲法の制定及び、経済回復を目指すこととなったが、この一連の出来事によりフィジー系とインド系の確執が顕著になった。また、2度目のクーデター後、フィジーは共和制を宣言し英連邦を離脱した。

(3)1990年に新憲法「90年憲法」が成立したが、同憲法下では大統領や首相にはフィジー系議員しかなれず、また、下院70議席のうちフィジー系に37議席、インド系に27議席、その他には6議席を割り当てていたため、内外から「人種差別的憲法である」との非難を受けた。

(4)1992年5月、90年憲法下で初の総選挙が実施された結果、フィジー系政党のSVT(フィジー語で「フィジー人の政策決定団体」の意味)が第一党となり、党首で87年のクーデター指導者であったランブカ少将(退役)が首相に就任した。

(5)1992年12月、ランブカ首相は、フィジー系とインド系の融和構想として、インド系野党を含む全政党を入閣させる「挙国一致内閣(Government of National
Unity)」構想を議会で発表し、インド系諸政党及び与党の大物議員達も賛意を表明した。

(6)1996年より、90年憲法の改正作業が開始され、97年7月には議会の承認を得て、98年7月、「97年憲法」として発布された。右憲法改正により、97年9月には英連邦への再加盟を果たした。

(7)1999年5月、97年憲法下の初の総選挙が行われた結果、第一党となった労働党のチョードリー党首がインド系で初の首相となった。

(8)2000年5月、フィジー系の権利擁護を主張する武装グループが議会を占拠、当時のチョードリー首相はじめ主要閣僚、議員を人質に約2ヶ月間立てこもる事件が発生し、バイニマラマ軍司令官は戒厳令を発令し行政権を掌握、97年憲法の廃止を発表した。人質解放後の7月、イロイロ副大統領が大統領に就任し、フィジー系が大多数を占めるガラセ暫定文民政権が発足。その後、ガラセ暫定政権は新たに選挙管理内閣として発足し、2001年8月に総選挙が行われた結果、ガラセ首相の率いる統一フィジー党(SDL)が議会第一党となり、9月、ガラセ首相を首班とする新政権が誕生した。

(9)2006年5月、下院議員の任期満了に先立ち総選挙が実施され、その結果ガラセ政権は続投することとなった。

(10)2006年12月5日、バイニマラマ国軍司令官は、ガラセ政権及び、上下両院の解散、主要政府高官の更迭等により無血クーデターを敢行。バイニマラマ国軍司令官が大統領代行を宣言。今年1月4日に大統領権限をイロイロ大統領に返還。1月5日イロイロ大統領がバイニマラマ国軍司令官を暫定首班に任命。

(11)2007年4月、控訴裁判所は、2006年12月クーデター後のイロイロ大統領による議会の解散とバイニマラマ軍司令官の暫定首相への任命は違法であるとの決定を行った。これを受け、イロイロ大統領は、直ちに、1997年憲法を廃止するとともに、バイニマラマ軍司令官を首相に任命し、2014年9月までに選挙制度を改定した上、選挙を実施すると発表した。更に、2009年7月、バイニマラマ首相は「変化への戦略的枠組み」と題するロードマップを発表した。これによると、今後2012年9月までの3年間、経済的な困難に対応するための様々な施策に取り組むとともに、2012年9月新憲法改定と議会制度改定の作業を開始し、選挙実施1年前、すなわち2013年9月までに完了させるとしている。

 

6.政情

(1)クーデター
(イ)2006年クーデターの原因となったのは、ガラセ前政権が成立以来その中心的な政策として、2000年の議会占拠事件への関与者に対する恩赦を規定した法案、フィジー系住民による伝統的な沿岸域排他的利用権を認める法案等、フィジー系保守派の利益を強化するような法案の成立を目指したことに対し、バイニマラマ軍司令官が、係わる法案は2000年議会選挙事件首謀者の擁護につながり治安を不安定にさせるとして反発してきたことにある。この政府と軍の関係悪化が次第に発展し、11月末から軍は五月雨式に実力行使を積み重ね、12月5日のバイニマラマ司令官による行政権掌握宣言へとつながった。
(ロ)右クーデターが過去の87年クーデター及び2000年議会占拠事件という二つの大きな政変と異なるのは、後者の二つの政変が、インド系勢力の政権掌握に対するフィジー系勢力の反抗によるものであったのに対し、今次クーデターは、フィジー系保守派の動きに対する軍の反抗であったこと。このため、今次クーデターに対してインド系住民の多くが支持乃至肯定的な反応を示していた。またバイニマラマ司令官は今次クーデターの目的として、前政権の腐敗を一掃するキャンペーンであると位置づけたが、このことにより、前政権の政策から恩恵を被らなかったフィジー系住民層からもクーデターへの支持乃至理解を得ることにつながった。
(ハ) 2007年5月、バイニマラマ政権は、不安定な社会的土壌の根絶に向けた政治、社会、経済等の全般的な改革のため、「フィジーの変化と前進のための人民憲章」の策定を開始し、2008年12月、人民憲章はイロイロ大統領に承認された。この人民憲章には、民族的差別のない選挙制度の策定の必要性(民族的割当議席を廃止し、一人一票制を導入する必要性)が掲げられており、現政府は、この選挙制度が改定されるまでは、議会選挙を行わないとの立場を取っている。そのため、現政府は、2007年PIF総会において2009年3月までの選挙実施を受け入れたものの、上記の理由で2009年3月までの議会選挙は困難であると主張した。
(ニ)09年1月、パプアニューギニアでのPIF(太平洋島嶼国フォーラム)首脳特別会合で、フィジーが09年5月1日までに、09年内に選挙を実施することを決めた上で、そのための日程表を明らかにしなければ、フィジーのPIF会合参加資格やPIFによるフィジーへの新規支援を停止するとの決定が行われた。他方、09年4月、控訴裁判所は、2006年12月クーデター後のイロイロ大統領による議会の解散とバイニマラマ軍司令官の暫定首相への任命は違法であるとの決定を行った。これを受け、イロイロ大統領は、直ちに、1997年憲法廃止するとともに、バイニマラマ軍司令官を首相に任命し、2014年9月までに選挙制度を改定した上、選挙を実施すると発表した。このような中、09年1月のPIF特別首脳会合の決定に従い、09年5月、フィジーのPIF会合参加資格等は停止された。
(ホ)09年7月、バイニマラマ首相は「変化への戦略的枠組み」と題するロードマップを発表した。これによると、今後2012年9月までの3年間、経済的な困難に対応するための様々な施策に取り組むとともに、2012年9月新憲法改定と議会制度改定の作業を開始し、選挙実施1年前、すなわち2013年9月までに完了させるとしている。このように民主的統治への復帰は相当遅れる見通しとなっている。

(2)憲法(2009年4月に1997年憲法は廃止されており、その後は様々な大統領布告が発布されている)
1997年憲法は、人種差別的であると批判を受けていた90年憲法の見直し作業を受けて1997年に施行。大統領は選挙でなく伝統的社会指導者大会議が任命し、首相は、大統領が下院の過半数の支持を得ると思われる下院議員を任命する。

議会は二院制でその内容は次の通り。なお、上下両院は2006年12月のクーデター以降解散中。

     下院:普通選挙で選ばれた71名の議員で構成。内46議席は人種別割り当て議席で、23議席がフィジー系、19議席がインド系、1議席がロトゥマ系、3議席はそれ以外の人種に割り当てられる。残りの25議席は人種に関係なく選出される。

     上院:32名の議員は、14名がGCC、9名が首相、8名が野党党首、1名がロトゥマ議会の各助言に基づき大統領によって任命される。

(3)政治指導者略歴

 (イ)大統領:ラトゥ・エペリ・ナイラティカウ(2009年11月5日就任)
1941年生まれ。クンブナ(伝統的支配地域)バウ島の高位チーフ。82年に国軍司令官、88年に在英大使、2000年に副首相兼フィジー系問題相、01年に下院議長を歴任。2006年12月のクーデター後、2007年1月に外務・対外貿易相、2008年9月に地方開発・多民族問題担当大臣、2009年4月に副大統領、2009年7月、大統領代理(7月30日よりイロイロ大統領が休暇を取ったため、その後、辞任)を経て2009年11月に第4代大統領に就任。

 (ロ)首相:ボレゲ・バイニマラマ
国軍司令官を兼任。2000年の議会占拠事件に際しては、5月29日から7月13日まで戒厳司令官に就任。2006年12月5日のクーデターに際しては当初自ら大統領代行と称して行政権を掌握したが、2007年1月4日、権限をイロイロ大統領に返還。翌5日大統領により暫定首相に任命された。

(4)主な政党(但し、クーデター以後は議会が解散されている)
2006年5月の総選挙の結果、議会下院勢力図は統一フィジー党(SDL)とフィジー労働党(FLP)の二大政党が占めていた。(統一人民党2名及び無所属2名を除く)。なお、フィジー系議席は全てをSDLが、またインド系議席は全てをFLPがそれぞれ占めていた。

(イ)統一フィジー党(SDL)
2001年5月に当時のガラセ選挙管理内閣首相を党首として発足。多民族主義を謳っているものの、フィジー系のための政党の色彩が強い。同年8月の総選挙で31議席を獲得して第一党となり、ガラセ党首が首相に就任した。2006年12月のクーデターまで与党。

(ロ)フィジー労働党(FLP)
1985年に結成。支持者層は工場労働者やサトウキビ労働者が主で、人種的にはフィジー系とインド系に跨っているが主体はインド系。87年の総選挙で国民連合党と組んで政権を獲得したが、当時の党首であるババンドラが首相に就任するもクーデターにより失脚。99年総選挙では37議席を獲得し第一党になり、チョードリー党首がインド系で初の首相に就任したが、2000年5月の議会占拠事件、その後の暫定政権発足により失脚。2001年8月の総選挙では27議席を獲得。2006年の総選挙では31議席を獲得。

(ハ)統一人民党(UPP)
1999年3月、一般有権者党(GVP)及び一般選挙民党(GEP)が合併、その後名称を変更。フィジー系、インド系及びロトゥマ系以外の民族の利益を代表する政党。2006年の総選挙では2議席獲得。党首ミック・ベドス。

(5)軍・警察
軍人総数約3,300人。正規陸軍の他、召集予備役(非常時の48時間以内の動員用に配置)、海軍から成る。司令官はバイニマラマ准将。(現暫定政権首相を兼務)
警察官は約2,630人(フィジー系60%、インド系、その他が40%といわれる)。

 

.国連平和維持活動への貢献

 フィジーは78年以降、国連平和維持活動のために、国連南レバノン平和維持軍(UNIFIL)、多国籍監視軍(MFO、シナイ半島)、クウェイト国連監視団(UNIKOM)、東ティモール、スーダン等に将兵・警察官を派遣してきた。また現在、イラク復興支援部隊として223名の軍人を国連警護のためにバグダッドへ派遣中。

8.観光と砂糖の国フィジー

(1)フィジーの主な外貨収入源は砂糖、衣料、観光。
(2)国内通貨はフィジー・ドル(約48円 10年4月現在)
(3)実質GDP 4,271百米ドル(09年予想値)   
(4)一人当たりGDP 5,454フィジードル  (08年予想値)
(5)実質GDP 成長率  -2.5%(09年)
(6)インフレ率      7%(09年)    
(7)失業率       8.5%(09年)
(8)貿易額 :輸出   1,391百万フィジー・ドル(08年)     
輸入   3,270百万フィジードル   (08年)        
(9)対日貿易:輸出   63.9百万フィジー・ドル(08年)
輸入   81.8百万フィジー・ドル(08年)
(10)主要貿易品目(貿易額順)
(イ)輸出:砂糖、魚類、衣料品、木材       
(ロ)輸入:鉱物燃料、輸送機械、工業製品、食料品               
(11)主要貿易相手国(同上)
(イ)輸出先:英、米、豪、NZ、日           
(ロ)輸入先:シンガポール、豪、NZ、中、米         

出所:Reserve Bank Of Fiji(フィジー統計局)                  

 

9.ハネムーンやマリンスポーツで人気のフィジー

 日本でフィジーと言えば、新婚旅行に人気の島、また、マリンスポーツのイメージが強い。日本からの観光客は、08年は21,918人(07年は22,719人)であった。観光地のナンディ周辺には、近年日本語の看板も目立つ。

10.パシフィック・ウェイ

 南太平洋を語るとき、キーワードとして用いられる言葉がある。これは、1970年、まだ独立後間もないフィジーのマラ首相(当時)が国連総会における演説にて用いたもので、西欧合理主義に対して、太平洋の住民から提起した「太平洋流」とでもいうもので、緩やかな経済発展、コンセンサスによる意志の決定方式など、伝統文化を踏まえた独自の流儀を強調したものである。

 

11.多民族国家、フィジー

先住民族の人々は、人種的にはメラネシア人とポリネシア人の混血とされる。特に東部ラウ諸島はトンガの支配を受けたこともあり、ポリネシア系の血が強い。文化的には、強大な権力を有する世襲制のチーフが存在しているなど、ポリネシア系の影響を強く受けている。
また、インド系住民が人口の半数弱を占めているのもフィジーの特徴である。その多くは19世紀末から20世紀初頭にフィジーにやってきた年季労働者の子孫である。フィジーのインド系住民は、カースト制のない平等なコミュニティを作ったが、独自の宗教・文化を保持し、先住民族系と混血することがほとんどなく、現在に至っている。
このほか、ヨーロッパ系、ロトゥマ人(スバ北部に約700kmにある島に住むポリネシア系)、中国系などの多彩な民族色もフィジーの特徴である。

 

12.フィジーに残る日本人の子孫

 日本人は19世紀末にサトウキビ労働者として初めてフィジーに来訪したと言われている。太平洋戦争前には貿易業を中心に若干の日本人が定着していた。彼らは大戦勃発と共に収容所に送られてしまい再び帰ることはなかったが、オヤガワ氏、カド氏など、現地人との間の2世3世が、フィジー社会の中で残っている。

 

13.「国技」ラグビー

 ラグビーは、とりわけフィジー系国民の間では、国技ともいうべき人気スポーツである。その実力にも定評があり、87年の第1回ワールドカップでは世界の強豪を相手にベスト8に進出、その華麗なパスワークは「フィジアン・マジック」と賞賛された。また、7人制ラグビーでは世界選手権に匹敵する香港カップで90年から92年まで3連覇、更に97年から99年まで再び連続優勝し世界一を誇っている。
こうした優れたフィジー人選手は日本でも活躍しており、代表的選手であるセレビがかつて三菱自工京都で活躍し、また、多くの選手が日本でプレイしている。現在、7人制ラグビー全日本チームの監督もフィジー人のパウロ・ナワルがつとめている。

 

14.伝統的飲料 ヤンゴナ

 ヤンゴナ(別名カバ)は、同名のコショウ科の植物の根を叩いて潰したものを水で絞った薄茶色の液体である。日本ではなじみは薄いが、南太平洋ではお馴染みの飲み物である。アルコール分はなく鎮静効果があり、飲むほどに全身の力が抜け、だるくなってくる。フィジーの伝統社会においては、ヤンゴナは昔から儀式には欠かせず、日本の茶道のような作法もある。現在でも様々な式典においてこのヤンゴナの儀式が行われる。尚、ヤンゴナの鎮静作用が医薬品として利用されており米国・独等へも輸出されていた。
ヤンゴナは、フィジー系のみでなくインド系住民も含む国民の嗜好品として気軽に飲用するほど普及しており、夕方ともなるとあちこちのオフィスでヤンゴナを酌み交わす姿が見受けられる。

 

15.幻の名花、タンギモウジア

 フィジーで3番目に大きい島タベウニの山奥深くにあるタンギモウジア湖のほとりに、小さな美しい花が咲いている。その名をタンギモウジアといい、世界でここにしか咲いていないといわれている。この植物は着生植物で、大木のそばに寄り添うようにして育つが、8月から1月にかけて赤い萼をもつ白い小さな花がたくさん咲き、その先端から水が滴り落ちる。その姿があたかも美女が悲しげに泣く姿を連想させるということから、「乙女の涙」という通称を持つ。
地元にはこの花にまつわる次のような伝説もある。昔、王女が戦士と許されぬ恋仲になり、山中での密会が発覚し戦士が殺害された。恋人の死を知らぬ王女が山中で何日も泣いた姿がこの花になった。

16.在留邦人/ 日本人観光客

(1)在留邦人:502名(2009年10月現在)。その多くが、観光業関係者、語学留学生、大使館及びJICA関係者等である。
(2)日本人観光客:14,713人(2009年)